実はこの「西行桜」の詞章は、数ある謡の名文句の中でも、
私が最も好きで、人生の基盤としている言葉です。

桜満開の春の日の事、高名な僧・西行法師は、心静かな気持ちで庭にある老木・桜の木を眺めていました。
この桜はとても有名で、年毎に多くの人が見物に訪れます。
今日は心静かに眺めていたいと思っていた西行ですが、いつもの通り、人々が花を見にやって来て、
それを追い返すわけにも行かず招き入れる事にしますが、そこで西行は一首の歌を詠みます。

「花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ  あたら桜の 科(とが)にはありける」

簡単に言えば、
「この素晴らしい木がある為に、それを見に来る人が大勢いるというのも皮肉なものだ」
と言う事を、歌に詠んだ訳です。

そして西行は夜になると共に、この桜の木のもとで眠りにおちます。

すると、この老木から桜の木の精が現れ、
「今の歌について少し不審に思う事がある」と西行に語りかけます。
西行は「決して桜の木を責めたつもりはないが…」と答え、
少し問答を交わしたところで、老木の精は例の名文句を言います。

「浮世と見るも、山と見るも。ただその人の心にあり。非常無心の草木の。花に浮世の科(とが)はあらじ。」

と。
そしてやがて二人は打ち解け、老木の精は舞を舞い、夜明けと共に西行の夢は覚め、
老木の精も消え失せるのでした。
「浮世と見るも…」つまり、面白いと思うもつまらないと思うも、幸せと思うも不幸と思うも、
全ては自分の心が決める事である、と。
何とも感動的であり、また至極当たり前のことでもあり、
しかしながら中々その様な考え方をして生きる事は大変なのかも知れません。

私は、特にここ数年、この言葉が大好きで、
実際この様に考えるだけで随分幸せな気持ちになれると思っています。
謡(うたい)にはこの様に、時に哲学的で人生を教えてくれる様な、素晴らしい言葉が山ほどあります。

観るも良し、聞くも良し。謡うも良し、舞うも良し。

もっとも、上記の様な事を、実際の能を鑑賞しながら感じられるようになるには、
少し勉強が必要かと思います。
そういった意味では、やはり謡を習うのが一番でしょう。

「一樹の陰の宿りも、他生の縁」(同じ木陰で一緒に雨宿りをするのも、前世からの因縁事である)

これも謡に出て来る言葉です。

この文章をお読み頂いた貴方。是非共に能楽を学び、楽しんでみませんか?